NVIDIAを救った入交昭一郎氏
NVIDIAのジェンスン・ファンCEOが、創業初期の危機を救ったのは日本のセガだったと卒業式で明かしました。決断を下した入交昭一郎氏は、今たまたま読んでいた『ホンダ二輪戦士たちの闘い』に登場する技術者でした。彼は、ホンダが1970年代後半に二輪レースの最高峰GP500への復帰に際して開発した夢のレーサーNR500をリードした技術者だったのです。
NVIDIAのジェンスン・ファンCEOが5月米カーネギーメロン大学の卒業式のスピーチで、セガとのエピソードを語りました。 日本でも『NVIDIAジェンスン・ファンCEO「日本のセガがエヌビディアの危機を救った」』 という記事で報道されています。
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ジェンスン・ファンCEOのスピーチ
ファン氏のスピーチは、以下の動画で視聴できます。創業初期に日本のセガから資金支援を受け、危機を乗り切った話が披露されています。
その決断を下したのが、当時セガの米国法人を率いていた入交昭一郎氏です。 たまたま私は今『ホンダ二輪戦士たちの闘い』という1970年代〜1980年代にかけてホンダが二輪レースWGPに挑んだ ドキュメンタリーを読んでいて、そこにも彼が登場するので目を引きました。
セガによるNVIDIA支援
NVIDIAは1993年に創業した、当時はまだ無名のグラフィックス半導体スタートアップでした。 1990年代後半、同社はセガの次世代ゲーム機ドリームキャスト向けのGPU共同開発を受託します。ところが、開発は次第に行き詰まり、技術的な方針転換が必要となります。
追い詰められたファン氏は自ら来日し、入交氏に対して技術判断の誤りを認め、開発契約の解除を申し出るとともに、開発資金の援助を依頼します。契約を履行できず打ち切る側が、同時に資金援助を懇願するという、かなり異例の場面でした。
これに対して入交氏は、セガがNVIDIAの未公開株式を引き受ける形で数百万ドル規模の資金を提供します。ホンダ出身の技術者だった入交氏は、技術開発には失敗のリスクがつきものだと理解していたのでしょう。この資金でNVIDIAは約6カ月の猶予を得て、その間に独自方式を捨てて業界標準へと舵を切る「奇跡のピボット」を成し遂げます。これが現在のAI半導体企業としての地位につながった、とファン氏は振り返っています。
ファン氏が卒業生に伝えたかったのは、CEOとは権力を振るう存在ではなく会社を存続させる責任を負う立場だということ、そして誠実さと謙虚さを示せば寛大さで報われるということでした。
ホンダのNR500の挑戦
NVIDIAを救った入交氏の判断を、私はホンダ時代の経歴と切り離して考えられません。入交氏は東京大学で航空工学を学び、1963年にホンダへ入社、世界GPを戦うレーサーのエンジン設計から技術者人生を始めた人物です。
そして1978年、ホンダの研究所で常務に就いた入交氏は、NR500の開発を主導することとなります。NR500は、ホンダがバイクレースの最高峰WGPのGP500クラス復帰のために投入した4ストロークマシンです。2ストロークが全盛だった時代に、あえて4ストロークで頂点を狙った「夢のマシン」でした。
なぜホンダは、勝つだけならはるかに有利な2ストロークを選ばなかったのでしょうか。当時のGP500クラスは、スズキやヤマハの2ストローク勢がタイトルを独占していました。同じ排気量なら、燃焼回数が倍になる2ストロークのほうが出力で大きく有利です。それでもホンダが4ストロークにこだわったのは、「うちは4ストローク屋だ」という社内の意識と、他社の模倣を嫌い独自技術で勝つという本田宗一郎以来の社風があったからです。市販車の多くを4ストロークが占めるホンダにとって、2ストロークで勝っても得るものは大きくありませんでした。
問題は、4ストロークでどう2ストロークの出力に対抗するかでした。答えは、回転数を極限まで上げ、それに見合う吸排気量を確保することです。NR500が見据えたのは2万回転という途方もない領域でした。高回転には小さく軽いピストンと多くの気筒が有利で、ホンダは1960年代に多気筒の超高回転レーサーで世界を制した実績も持っていました。ところがGP500クラスの規則は、気筒数を最大4気筒に制限していました。気筒数で攻めたいホンダにとって、この上限は大きな壁でした。その壁を越えるための解が、円形シリンダーを2つつなげた長円形のピストンです。1つの気筒に2本のコンロッドと8つのバルブを収めれば、4気筒のままV型8気筒に匹敵する吸排気を確保できます。NR500とは、規則の枠内で4ストロークの限界を押し広げるための、緻密な逆算から生まれたマシンでした。
結果は、レースでは惨敗に近いものでした。ホンダはほどなく現実的な2ストロークのNS500へ切り替え、1983年にはフレディ・スペンサーがそのNS500で500ccクラスの世界王者に輝きます。それでもNR500で培われた楕円ピストンの加工技術やバルブ駆動系のノウハウは、後のエンジン開発や1992年発売の市販車NR750に受け継がれました。失敗から学び、次へつなぐ。NR500はその典型例として語り継がれています。
つまり入交氏は、技術的に野心的すぎる賭けに出て短期的には敗れ、その経験が後の財産になるというプロセスを、自らの手で経験した人物でした。独自技術路線から既存技術への方針転換という痛みは、入交氏自身がよく知るものでした。だからこそ、ファン氏が独自技術に固執して行き詰まったと頭を下げに来たとき、その痛みと、その先にある可能性の両方を理解できたのだと思います。ホンダ出身の技術者だったからというだけでなく、NR500という夢のマシンを担いだ当事者だったからこその寛容さだったと考えると、あの救済劇の筋が腑に落ちます。
夢に破れたセガ・ドリームキャスト
ここで皮肉なのは、NVIDIAを救ったセガ自身が、そのドリームキャストで敗れ去ったことです。
ドリームキャストは1998年11月に日本で、翌1999年9月に北米で発売され、出だしこそ好調でした。しかし2001年3月に生産を終了し、セガはこれを最後に家庭用ゲーム機のハードウェア事業から撤退します。
敗因はいくつも重なっていました。 1999年に発表されたPS2は、DVD再生機能という当時としては強力な訴求力を持ち市場は「PS2待ち」のムードに傾きます。ドリームキャストはEAをはじめとする主要サードパーティの支持を得られず、とりわけ北米市場でスポーツタイトルが手薄だったことも痛手でした。 サターン以来の度重なる苦戦で小売店や消費者の信頼の摩耗、脆弱なコピー対策での違法コピー横行が追い打ちをかけます。
そして救済劇との関連で言えば、ドリームキャストのGPUに最終的に採用されたのはNVIDIAではなく、NECとビデオロジックが手がけたPowerVR2でした。ピボット後のNVIDIAはRIVA TNT系でPCグラフィックス市場へ向かい、これが正解となります。当時、Windows向けのアクセラレータ付きグラフィックカードとしては、NVIDIAがトップブランドでした。
救った側のセガがハード事業から去り、救われた側が世界最大級の半導体企業へと駆け上がっていく。入交氏の判断の大きさと同時に、ハードウェアビジネスの残酷さを感じずにはいられません。
撤退後のセガは、ハードメーカーからソフトメーカーへと舵を切りました。2004年にはパチスロ・パチンコ大手のサミーと経営統合してセガサミーホールディングスとなり、『龍が如く』『ペルソナ』『ソニック』といった有力IPを抱えるエンターテインメント企業として生き残っていきます。
人類史上最も高くついた利益確定
入交氏の決断はNVIDIAを救いました。では、セガはその見返りを得られたのでしょうか。
セガの米国法人は、約500万ドルの出資でNVIDIAの未公開株を取得していました。NVIDIAは1999年1月に株式を公開します。そしてセガがこの株式を1500万ドルで売却したのは、入交氏がすでにセガの社長を退いたあとのことでした。差し引き1000万ドル、3倍のキャピタルゲインです。ドリームキャストの不振にあえいでいた当時のセガにとって、これは経営の足しになる現金でした。判断としては、何もおかしくありません。
問題は、その後のNVIDIAの成長です。セガが株式を手放した時点ではまだ小さな半導体メーカーだったNVIDIAの時価総額は、いまや数兆ドル規模に達しています。仮にセガがあの株式を売らずに持ち続けていたら、その価値は兆円単位に膨らんでいた計算になります。ドリームキャストが残した赤字も、ハード事業撤退に伴う特別損失も、2023年に買収したRovio(『Angry Birds』の開発元)で2026年に計上した約300億円の減損損失ですら、すべて飲み込んでなお余りある規模です。それは、セガサミーホールディングスそのものの時価総額をも上回ってしまいます。
このエピソードは、2024年以降にNVIDIAが時価総額で世界の頂点を争う企業になって以降、「人類史上最も高くついた利益確定」として繰り返し語られるようになりました。
ただ、後出しでセガの判断を責めるのは酷だとも思います。 当時のNVIDIAは、3dfxなどの先行者に押される赤字スタートアップでしかありませんでした。当時のセガには、株を売らなければ生き延びられないという事情があったのかもしれません。目先の資金繰りにバランスシートを合わせにいった結果、長期で育つはずの卵を手放してしまう。株式は長期で持つのが基本だと考える私のような人間からすると、これはなかなか身につまされる話です。
入交氏のその後
入交氏は、2000年6月にドリームキャスト商戦の責任を取ってセガの社長を退きました。
その後のキャリアは、技術者ど真ん中だったホンダ・セガ時代とは少し趣が変わります。入交氏は2001年に個人事務所を立ち上げ、複数の企業で社外取締役や顧問を務める歩みに移っていきました。自動車部品メーカーの経営に携わるなど、自動車屋としてのルーツに戻る場面もありました。セガ時代の仕事として意外と知られていないのが、人気シリーズ『サクラ大戦』の製作総指揮です。
そして2024年以降、NVIDIAが時価総額で世界の頂点を争う企業になったことで、入交氏は「NVIDIAを救った男」として一気に再評価されました。口火を切ったのは2024年5月のウォール・ストリート・ジャーナルの報道です。2025年には、入交氏が出演するラジオ番組にファン氏がビデオメッセージを寄せるなど、四半世紀越しの交流が公の場で見えるようになっています。1940年1月生まれの入交氏は、86歳になったいまも精力的に語り続けています。
ホンダで夢のレーサーを設計し、セガでドリームキャストを担ぎ、最後はNVIDIA物語の恩人として表舞台に戻る。その人生の弧は、ほとんど映画の脚本のようです。
まとめ
NVIDIAのジェンスン・ファンCEOが語ったセガの逸話は、美談として広く受け取られました。実際それは、誠実さと謙虚さが寛大さで報われた物語です。
ただ、私がこの話に惹かれたのは、入交昭一郎という一人の技術者の人生に、奇妙な一貫性を見たからです。楕円ピストンのNR500も、ドリームキャストも、入交氏が関わった「夢のマシン」はいずれも野心的すぎる賭けで、商業的には敗れました。それでも、技術的な失敗のリスクを身をもって知っていたからこそ、入交氏はNVIDIAというもう1つの夢に手を差し伸べることができたのだと思います。
冒頭で触れた『ホンダ二輪戦士たちの闘い』を読んでいなければ、私はこのニュースを巨大企業の創業秘話として読み流していたかもしれません。1つの判断の裏側には、それを下した人の来歴があります。NVIDIAを救ったのはセガであり、そのセガを動かしたのは、夢のマシンを担ぎ続けた一人の技術者でした。